2005年

ーーー9/6ーーー 町の防災訓練

 
町の防災訓練に参加した。これも常会(当地では町内会をこう呼ぶ)の班長という立場での動員である。

 穂高町は23の行政区から成り、その各々の区がいくつかの常会によって構成されている。私が住んでいる地域の区の名称は古厩(ふるまや)といい、10ケの常会から成っている。私が所属しているのは第9常会であり、そこには6つの班がある。私が今年度担当しているのは、そのうちの第1班の班長である。ちなみに世帯数は、古厩区全体で240程度、第9常会で41である。

 住民が全て常会に入っているわけではない。新しく住み着いた世帯の中には、常会に加入しないものもある。元は入っていて、途中で退会するものもいる。古厩区での現在の加入率は7〜8割といったところか。近隣の区では、加入率が5割程度のところもあるとか。

 昔は常会というものは、ある種の絶対的な制度だったようである。加入するのが当然であり、常会から抜けたらその地に住んでいられない、というくらいのものだったとか。なにしろ納税係などという役職が、常会の中にあったくらいである(今は無い)。

 常会というのは、住民の自治組織であり、行政の下部機構である。かた苦しく言えばそのようになる。しかし実際のところ現在では、地域の親睦を図るという性格だけが目立つようになってきた。農家ばかりだった昔には、常会単位の共同作業があり、農地や共有地に関わる重要な決議なども行なわれただろう。しかし今ではサラリーマン世帯も多くなり、農家一色の土地柄ではなくなった。社会が変わるにつれて、常会の持つ意味も変わってきたのである。

 以前は、常会に入っていない世帯には、町の回覧板が回らなかった。しかし、任意加入の常会に入っていないからという理由で、行政サービスに差が出るのはおかしいというような意見が出て来たのだろう。数年前から、未加入世帯にも回覧板と同じ内容の文書が配られるようになった。

 このような状況であるから、現在では常会に加入する意味が希薄になってきた。特にメリットが無い上に、会費や役務提供などの、いわばデメリットがある。そう考える人も多くなって、加入率は下がる一方である。

 町の行政としては、常会の加入率が下がるのは好ましくない。トップダウンの行政区の組織は、なんだかんだ言っても、今だに行政の一つの柱なのである。また加入率が下がり、住民の結束が弱まれば、行政サービスの負担が増えるのは明らかである。 

 今年になって、地域住民による自主防災体制が話題に上がるようになった。今回の防災訓練も、その一環として行なわれたのであろう。主催者の挨拶にそのような話があった。うがった見方をするならば、この防災という視点からの動きは、住民の地域社会に対する関心の低下、具体的には行政区、常会への加入率の低下を憂慮し、それに対する対抗策として行政側から出されたものかも知れない。

 ところで我が家の事情についても、少し触れよう。

 外から越して来た我が家は、住み着いた当初から常会に入った。その当時はまだ、入るのが当たり前だったのである。しかし、入る必要が有ったのかと言う疑問は、最近に至るまで、一定の周期でもって家庭内の話題となってきた。常会に入っているからには、嫌なことでも首を縦に振らねばならぬ場合もある。そんなことを理不尽に感じ、神経質になるのは、よそ者の常である。

 もっとも年月が経つにつれて、ここの常会もリベラルな雰囲気になってきた。時代が変わり、世代も変われば、組織の雰囲気も変わって行くのである。私自身が年をとって丸くなったこともあるだろうが、最近では辛さを感じることも少なくなった。今回の防災訓練も、参加してけっこう楽しかったのである。



ーーー9/13ーーー ヘリ下山

 台風14号による雨の降り方はすごかった。降り始めからの数日間の雨量が1300ミリに達するなど、とても信じられないことである。

 ところで皆さんの中に、山の上で台風に遭遇した経験を持っている方はおられるだろうか。私は一度、特大の台風に見舞われたことがある。もちろん自慢できることではない。台風が接近する気配があれば、できるだけ速やかに山を降りるのが登山の鉄則である。

 今回はその恥ずかしい経験談をご披露しよう。

 1982年の8月上旬、私はその当時勤めていた会社の山岳部の夏山合宿で、南アルプスに入っていた。聖岳から赤石岳を縦走しようという計画。メンバーは5人。例年になく少人数の合宿であった。

 静岡県側から入山し、初日は聖岳の中腹にある聖平のテント場に幕営した。夕方の気象通報で天気図を取ると、天気図の南の端に台風が出現していた。予想外のことであった。しかしこの時点では、何ら心配することも無かった。十分に遠かったからである。

 翌日、聖岳を越えて、赤石岳の手前にある百間洞という場所にテントを張った。天気図を取ると、台風は常識外れの速さで近付いていた。たった一日で、天気図の端から日本の近くまで来ていたのである。しかし、すでに南アルプスの奥地に達していた我々には、すぐに下山できるルートは無かった。予定通りのコースを辿っても、次の日の夕方には標高の低い谷間まで降りることができる。いくら台風が速くても、台風が通過する前に下山できると判断した。

 次の日、予定通り赤石岳を登った。標高3000メートルの山頂は、すでに強い風と雨に襲われていた。我々はそそくさと東側に下山をはじめた。目指すは椹島という登山基地である。そこまで降りれば、車も入れる場所だし、安全に問題は無い。

 ところが山頂からしばらく下った尾根上の山小屋、赤石小屋の前まで来ると、小屋の主人が「台風が近付いて危険だから、この先に進まない方が良い。今晩はこの小屋に泊まれ」と言った。私は、「宿泊料金を稼ぐつもりだな」と勘ぐった。しかしリーダーのM氏は躊躇せず、小屋の主人の申し出を受け入れた。

 その晩、特大の台風は南アルプスの上空を通過した。物凄い暴風雨であった。小屋がユサユサと揺れて、怖かったのを思い出す。

 翌日、赤石小屋から椹島まで下ったわけだが、ほうぼうで大木が倒れて登山道を塞いでいた。まるでフィールド・アスレチックのような格好で乗り越えた。そして、予定時間をはるかにオーバーして、椹島まで辿り着いた。赤石小屋の主人のアドバイスは正しかったと思い知らされた。

 椹島には大きな山小屋があり、100人は泊れる規模であった。その小屋に到着して、小屋番に話を聞くと、「この先の林道が台風の大雨で崩壊した。だから暫くはこの小屋に留まって欲しい」とのことだった。我々は迷う事なくその言に従った。登山者の中には、勤め先の都合などで無理に下山した人もいたようである。何人かの人が濁流に転落して行方不明になったとの噂も、後で聞いた。

 椹島の小屋は、南アルプスの山脈に深く切れ込む谷筋にある。谷筋ではあるが、安定した地形の小広い場所なので、登山基地として重要なポイントになっていた。昔は東海パルプの作業基地でもあった。この辺りは東海パルプの王国であった。

 台風による増水で濁流と化した川は、建設以来一度も水害に会っていないという小屋も脅かした。岸が崩れて小屋が流れにさらわれる恐れがあったので、すぐに逃げだせるよう、荷物をリュックサックにまとめて就寝するように言われた。夜中に岩が濁流の中を転がるゴロンゴロンという音が聞こえて、無気味だった。

 一夜明けると良い天気。のんびりとした避難生活が始まった。雨中の行軍で濡れた装備を天日で乾かす。小屋の回りを散策して、狂ったように流れる濁流を眺める。小屋の中でトランプ遊びにふける。飽きたら昼寝をする。

 小屋側から災害状況に関するアナウンスが入る。下流から救助隊が道を付けながら登っているが、崩壊が激しいので遅々として進まない様子。

 山の上から降りて来る登山者が、皆ここで足留めになるのだから、人数はどんどん増えていく。それでも小屋の限界を超えるようなことにはならなかった。人が多すぎてパニックになるというような状況ではなかった。

 小屋のはからいで、各パーティー一件だけという条件で、東海パルプの業務用無線を使って下界との連絡が許された。沼津の事業所と通話をして、伝言をお願いするのである。我々のパーティーも、リーダーのM氏が代表となって、在京の留守番係り宛の伝言を伝えた。

 我がパーティーが持参している食料も、そんなに長くは続かない。それが切れたらどうしようと心配していたら、山小屋が炊き出しをはじめた。無料で食事を提供してくれるのである。これには助かった。

 二日目以降は宿泊料金も只になった。だから無理して下山しないでくれとは小屋番の弁。いつまで続くか分らない足止めに、金銭的な心配から危険を犯して下山するという輩も出るだろう。それを救う配慮だ。

 小屋の中にあふれる避難者。そのほとんどが登山者だが、ざっと見たところさして慌てる風でもない。それぞれ勤めや仕事もあるだろうに、のんびりと構えている様子。しょせん会社にとってあまり重要でもない立場の人々なのか。それとも山に登る人種というのは、このような状況を危機とも感じない鈍感さを持ち合わせているのか。もっとも他人のことをとやかく言える身分ではないが。

 そのうちヘリコプターが飛んで来るようになった。自衛隊が救援物資を運んで来るのである。始めは小型のヘリだったが、じきに双発の大型ヘリも飛来するようになった。なんだか戦場のような雰囲気となった。

 三日目だったか、道路の復旧の見込みが立たないとのことで、ヘリによる下山が発表された。避難者全員を、少人数に分けて、ヘリで降ろそうというのである。まず女性、子供が優先的に下山することになった。全員が小屋の前の広場に集まって、去る人と残る人がお別れの挨拶をする。知らない者どうしが手を振ってお互いの無事を祈る言葉を交す。ちょっとホロリとさせる光景であった。

 女性、子供を除いた残りは、各パーティーごとにくじ引きで順番を決めることになった。運命のくじ引きである。我らのリーダーM氏は、中程の順番を引いた。まずは上出来である。中には勝手な都合を述べて、特別扱いで早い順番を取ろうとする者もいたが、山小屋の番頭さんが毅然とした態度で取り仕切っていた。全体を通じて、山小屋側の態度は立派であった。

 場所が山間僻地なので、ヘリの操縦も危険を伴う。大型ヘリでも、定員の三分の一くらいの人数しか乗せない。機体が重くなると危険が増すからだろう。小形ヘリと大型ヘリが入り混じって、何度も飛んで来ては避難者を載せて去って行く。

 避難生活四日目だったか、五日目だったか記憶が定かではないが、ついに我々の番が回って来た。リュックサックを手に、仮設ヘリポートで待機していると、大型ヘリがやってきた。自衛隊員の指示に従い、背を低くして後部のハッチから乗り込む。初めて搭乗した自衛隊のヘリの内部は、想像以上に殺風景だった。

 離陸したヘリは一路南下して静岡方面に向かう。操縦席との間の仕切りが開いているので、操縦している隊員たちの様子が見える。操縦席には張り詰めたような緊張感があった。目を下界に転じると、台風の傷跡を生々しく見せる山や谷が過ぎ去って行った。

 乗っていた時間は十数分といったところか。実に速い。我々を載せたヘリは、安倍川の河川敷に設けられた、特設救助本部に着陸した。ヘリポートの向こうには、運動会で使うようなテントがいくつも並び、その下で自衛隊員が忙しそうに働いていた。一角には、お偉いさんとおぼしき自衛官の一団が座り、腕組みをしてこちらを見ていた。

 避難者は、ヘリから降りるとすぐに専用バスに乗せられ、近くの公民館へ移動した。そこで簡単な事情聴取をされ、広い部屋に移って昼食の弁当とお茶を与えられた。その後お役人らしい人からちょっと小言を頂き、解散となった。

 我々は静岡へ出て、駅前食堂で無事帰還の打ち上げを行なった。その前に会社の上司に電話を入れたら、「いったい何をやっているのだ」と怒られた。無理もない。

 新幹線で東京に向かう途中、富士川にかかる在来線の鉄橋が落ちているのを見た。今さらながら台風の凄まじさを思い知らされた。


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 実は、その前の年も、夏山合宿で事件があった。北アルプスの奥地である三俣蓮華岳のテント場で、ガソリンコンロの爆発事故が発生したのである。火傷を負った私ともう一名は、民間のヘリコプターで富山の病院に運ばれた。その時は、退院するまで三週間かかった。

 私は静岡から戻って、こっそり次のような句を詠んだ。

 夏合宿 二年続けて ヘリ下山


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(注) このような話を書くと、私が所属していた山岳部はしょっちゅう事故ばかり起こしていたように思われるかも知れない。しかし、これはたまたま二年続けての厄年だったということである。この二件を除けば、私が参加した数十回の山行で、一つの事故も事件も無かったし、下山予定が遅れることも無かった。むしろ、体力、気力ともに充実した、立派なクラブであった。山中で好んで交された卑猥で下品な会話とは裏腹に、自然への配慮、他者への思いやりなど、実に高潔な部分も持ち合わせた集団であった。山の上では、どのような困難に遭遇しても、笑い声が絶えなかった。困っている人がいると、進んで助力を惜しまず、またそれを楽しんだ。屈強で優しく、機知に富んだ連中であった。私は彼等と過ごした山の日々を、「奇跡のような出会い」という言葉を重ねて思い出す。
  
  

ーーー9/20ーーー ぶら下がり健康法

 
むかし「ぶら下がり健康法」なるものが流行ったことがある。高い鉄棒のようなものにぶら下がって、足をだらりとさせるだけなのだが、これを毎日数回行なうと、健康に良いというのである。

 
そのための用具として、ぶら下がり健康機なるものも出回った。巾の狭い移動式の鉄棒のようなもので、これを部屋の隅に置いてぶら下がるというわけだ。しかし、これを導入したどの家庭でも、じきにハンガーで衣類を掛ける用途になってしまったとか。

 その「ぶら下がり健康法」を思い出した。私の工房の事務所は二階で、下は通り抜けの車庫になっている。その二階を支える鉄骨の下にぶら下がる。実に簡単だ。仕事の合間を見て、午前と午後に二回づつくらいぶら下がる。ぶらんとしながら、遠くの景色を眺めたりする。

 これをやるようになってから、体の具合が良くなった。背中や腰が伸びるので、疲れがたまりにくくなった。そうすると、精神的ストレスも緩和される。また、消化器系も整ってきたようだ。かかり付けの鍼灸の先生に話すと、それはとても良いことだから続けなさいと言われた。 

 健康運動の中には、やり方が適切でないと、却って体を傷めるものがある。柔軟体操でも、この年になると慎重にやる必要がある。無理に曲げて腰を傷めることもある。その点、この「ぶら下がり」は危険を伴わないように思う。今のところ弊害は無い。とにかく簡単で、時間を取られないのが良い。

 ただぶら下がるだけで体調が良くなるというのも、不思議である。逆に、二本足で立っているということが、かなりの無理を体に強いているのかも知れない。ジャングルで生活するチンパンジーやオランウータンたちは、樹から樹へとぶら下がって移動するくらいだから、さぞかし健康で、ストレスも無く暮らしているのだろう。



ーーー9/27ーーー 木工研修旅行

 
松本近辺の木工家3名と連れだって、静岡の同業者の工房を訪問した。私が導入を考えている木工機械の使い方について、アドバイスを戴くことが目的。他の3名もそのことに興味があるということで同行した。

 木工技術に関して、他人に教えてくれる木工家と、そうでない人がいる。私が普段付き合っている木工家たちは、ほとんどが気軽に物を教えてくれる「いい人」ばかりだ。しかし、世の中には、質問を受け付けない木工家も多いらしい。昔の職人タイプの人の中には、相手を同業者と見ると、一切口をきかない人もいるそうである。

 今回指導をしてくれた木工家は、格別に優れた人物であり、また教育者の資質を備えた人物でもある。とても丁寧に教えてくれた。あらかじめ印刷したレジュメを配ってくれるところなど、実に行き届いている。また、機械の説明だけでなく、実際の作業の体験もさせてくれた。たいへん勉強になった。

 さて、他人の工房を見るというのは、なかなか興味をそそられるものである。まず工房の大きさで一つの印象を受ける。次に設置してある機械に目が行く。どのような種類の機械があり、それらをどのように配置してあるか。個々の機械の性能も関心を引くところだ。さらに工具の管理の仕方や、材木の保管状況なども見逃せない。

 家の雰囲気で住人の人柄がしのばれるように、工房の雰囲気は木工家の作風と関係があるように思う。世の中の個人木工家の一般として、資金的な制約などから、自分が理想とする工房になっていないケースの方が多いかも知れない。それでも日々その中で仕事をするうちに、その人らしさが染み付いていく。そして、それが作風にも現れるのである。

 作品が生まれるには様々な背景がある。工房の有り様もそれを反映している。創作活動の現場には、物語りがある。




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